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中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」NPO法人築地居留地研究会 平成31年3月度定例報告会に参加

当ゼミは、本学元客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、設立して7年が経過しようとしています。その間、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士、横浜の女性宣教師たち、J.H.バラ博士の各書簡集あるいは伝記類の輪読、フィールド・ワークの適時な実施、並びにキリスト教史学会大会や外国人居留地研究会全国大会など各研究会に参加しながら活動をしてきました。 4月からは、築地大学校(明治学院の前身)教授・舎監、明治学院神学部教授であったトーマス・T・アレキサンダー博士の曾孫のジョアンナ・シェルトン著『わたしの家族の明治日本』(文藝春秋、2018年10月)を輪読する予定をしています。

今回はゼミの一環として、中島先生が講演された「NPO法人築地居留地研究会 平成31年3月度定例報告会」に、ゼミ生9名が参加したので報告させていただきます。

開催日時や会場並びに次第など概要は下記のとおりでありました。

主催:NPO法人築地居留地研究会
後援:東京都中央区
日時:2019(平成31)年3月23日(土)14:00 ~ 17:45
会場:聖路加国際大学 聖路加臨床学術センター 3階3302号室    
            東京都中央区築地3-6-2
次第:Ⅰ 開会にあたって 挨拶 NPO法人築地居留地研究会理事長 水野雅生    
            Ⅱ 定例報告会  
                  テーマ:築地居留地と近代音楽 ―讃美歌と青年たちの出会い―
                with 聖路加国際大学聖歌隊の皆さんによる合唱
                  講 師:中島耕二(なかじま こうじ)          
                                  東北大学博士(文学)、
                                  築地居留地研究会理事、   
                                  明治学院大学元客員教授    
           Ⅲ 記念写真 聖路加国際病院旧館
    Ⅳ エクスカーション 講演に関連した史跡案内    
            V 講師を囲んでのお茶会    
           Ⅵ 終了
参加者:約80名(満員)

中島先生が上記テーマで講演された内容については、ここでは配布された詳細なレジュメから抜粋し、項目を加えながらその骨子をご紹介いたします。

1.はじめに  
日本の近代音楽、つまり洋楽の流入時期は、一般には1853年7月に黒船が浦賀に来航した時期と言われている。ペリー艦隊は軍楽隊を2組編成し、上陸、帰艦のたびに軍歌、アメリカ国歌やフォスターの曲などを演奏し、日本人に洋楽を聴かせていた。
 一方、日米修好通商条約締結の翌年、1859年にはプロテスタント宣教師が来日、神奈川(横浜)ではヘボン夫妻、S.R.ブラウン一家が成仏寺に居住し、日曜日には礼拝を守り讃美歌を歌っていた。ブラウン一家はポータブル・オルガンを持参し、日本人の一般庶民に讃美歌の旋律を届けている。
2.築地居留地で育てられた近代音楽とそれを担った音楽青年たち  
築地居留地では明治2(1869)年以降、カロザース宣教師夫妻の英語塾で少年、少女は讃美歌の指導を受けていた。後に音楽取調掛(後の東京音楽学校、現在の東京藝術大学音楽学部)の校長になる伊澤修二少年もここで学んだ。皆さんが聴いたり、歌ったりして良くご存じの童謡、文部省唱歌、歌曲、および県民歌など、日本を代表する曲を作った近代音楽家たちは、築地居留地と深い関係を持っている。以下、具体的に説明する。  
➀ 西村庄太郎(1864~1931)  
明治13(1880)年、横浜のバラ学校(ヘボン塾の後身)が築地居留地7番に新校舎を建てて移転し、築地大学校となる。そのとき生徒の一人であった西村少年も一緒に築地にやってきた。同少年は、横浜のヘボン塾でミス・マーシュ女性宣教師からオルガンの手ほどきを受け、短期間に「聖歌集」をマスターし、横浜第一長老教会(後の住吉町教会、現在の横浜指路教会)のオルガニストを頼まれるまでになった。彼が築地に来ると生徒仲間と新栄教会(戦時中、目黒に移転)に通い始めたが、早速オルガニストを依頼された。やがて彼のもとに音楽に関心を抱く後輩たちが集まって来て、新栄教会を教室にして彼から譜面の読み方やオルガンや洋楽の基礎を学ぶ。その音楽仲間に納所弁次郎、小山作之助、内田粂太郎の「築地大学校三羽烏」と呼ばれる音感に優れた生徒がいた。  
西村は同校を卒業し札幌農学校(現在の北海道大学)に入学するが、父親が急死したために横浜に戻った。後に商用でアメリカに滞在中、高峰譲吉博士と出会いタカジアスターゼの日本での一手販売権を得て、日本で友人3人と製薬会社を立ち上げた。それが三人の友、つまり三共、現在の第一三共である。西村庄太郎は音楽家にならず実業家になったが、立派な近代音楽家たちを育てた先人となった。  
➁ 納所弁次郎(1865~1936)   
築地の戸川邸で生まれ、家でも幼い時から讃美歌を聴き、また新栄教会や露月町教会に姉たちに連れられて礼拝に出席していた。明治15(1882)年に17歳で築地大学校に入学し、正課として朝夕の礼拝で讃美歌を歌い、日曜日には新栄教会の礼拝に出席し讃美歌を歌い、讃美歌漬けの毎日だった。弁次郎は音楽に特別関心があったので、宣教師のトーマス・T・アレキサンダーや上級生の西村庄太郎から放課後、特別にオルガンの奏法の指導を受けていた。同校を卒業すると音楽取調掛に進学し、優秀な成績を残した。卒業後は母校の教員、学習院教授を長く務め、その間「言文一致唱歌」運動を広め、特に学校唱歌に力を注ぎ、文部省に採用されるようになった。  
その代表作が「うさぎとかめ」や♪“桃から生まれた桃太郎” の「桃太郎」である。♪“もしもしかめよかめさんよ” の故郷は、この築地居留地と言って良いでしょう。    
~上記二曲を聖路加国際大学聖歌隊の皆さんが美しいハーモニーで合唱された~  
なお、文部大臣を歴任した永井道雄は、弁次郎の姪・永井次代(政治家永井柳太郎の妻)の子供にあたる。  
➂ 小山作之助(1864~1927)  
新潟県に生まれ16歳で上京し、明治13(1880)年に築地大学校に入学し、学校では弁次郎とずっと一緒に行動し、新栄教会の礼拝にも出席した。同校を出ると音楽取調掛に進学し、やはり優秀な成績を残し卒業後は、長く母校に務め教授となり、退官後も音楽教育に力を注 ぎ後進を指導した。中でも滝廉太郎を育て、ドイツ留学の世話をしたことは良く知られている。  
代表作の♪“卯の花の匂う垣根に” という「夏は来ぬ」は小学校の音楽教科書にも採用された。ちなみに作詞はかの佐々木信綱である。  
➃ 内田粂太郎(1861~1941)  
明治12(1879)年、17歳のとき群馬県前橋から横浜に出てバラ学校に入学し、翌年同校の築地居留地移転(築地大学校になる)と共に上京した。築地に移るとすぐに新栄教会に通い始め、明治14(1881)年3月に石原保太郎牧師から洗礼を受けて新栄教会員となった。内田もやはり納所や小山と一緒に築地大学校および新栄教会で西洋音楽に目覚め、納所や小山と同様に音楽取調掛に進学した。卒業後は彼らと別れ群馬県師範学校に奉職し、唱歌の普及や作曲に努力した。内田が作曲した小学唱歌「秋景」(秋げしき)は大変人気があり当時良く歌われた。やがて、母校に戻り音楽取調掛の助教授、教授となり音楽教授法を講義した。その頃の教え子に三浦環や山田耕筰がいた。晩年は群馬に戻り県内の音楽教育に力を注いだ。  
➄ 北村季晴(すえはる,1872~1931)
 明治5(1872)年静岡に生まれ、明治10(1877)年に一家で銀座数寄屋橋に転居した。季晴少年は西洋音楽に興味を抱き築地居留地に出かけ、東京一致神学校(明治学院神学部の前身)などに顔を出しフルベッキ宣教師からオルガンを習うようになった。明治20(1887)年に東 京一致英和学校(築地大学校の後身)に入学し、朝夕の礼拝と新栄教会の日曜礼拝で讃美歌に出会った。この年、同校は築地から白金に移り明治学院普通学部になり、北村も白金に通うことになった。しかし、彼は初代総理であったヘボン博士から「君は音楽の才能の天分があるし、音楽を目指すなら明治学院よりも音楽学校の方が良い」と勧められ、東京音楽学校に転校した。同校卒業後は青森師範学校、その後長野師範学校に勤め、そこで明治33(1900)年に、現在も長野県出身者は誰でも歌えるほど県民に知れ渡っている「信濃の国」を作曲した。また、日本最初の創作オペラ「露営の夢」、和洋折衷歌劇「ドンブラコ」の作曲者として音楽界では良く知られた存在である。長野師範学校退職後は、東京音楽学校嘱託や三越呉服店の三越少年音楽隊を指導した。現在、長野県庁前に同氏の記念碑がある。  
➅ 大塚淳(すなお,1885~1945)  
父・大塚正心はクリスチャンの医師であり、ハンセン氏病院の慰廃園を開設し長く園長を務めた。母かねは山田耕筰の母ひさの妹である。 従って、淳は山田耕筰とは従兄弟関係にある。淳は幼い日両親に連れられて新栄教会に通った。大塚夫妻は息子の淳を明治学院に入れ、卒業後は医師の道に進むことを期待していたが、淳は音楽家を志望する。明治学院を卒業すると東京音楽学校に進学した。卒業後、慶応義塾のワグネル・ソサィエティーの常任指揮者、東京音楽学校助教授、教授、明治学院グレゴリーバンド、新交響楽団(現在のN響)および満州国新京交響楽団の常任指揮者を務める。慶応新応援歌の作曲や慶応義塾塾歌の編曲もしている。従兄弟で一歳違いの山田耕筰にとっては、淳は目標でありライバルでもあった。  
➆ 山田耕筰(1886~1965)  
明治19(1886)年6月に東京本郷で3人の姉、一人の兄と弟の二男として生まれた。一家はすぐに横須賀に引越し、耕筰は7歳まで住んでいたが家が焼け、長姉と一緒に二番目の姉夫妻が住む芝愛宕下に移る。そこで耕筰は近所のヤングマンが経営する第二啓蒙小学校に通う。しばらくして、父親も上京してヤングマン経営の聖書学館の事務を手伝うことになり、築地新栄町5丁目(現在の入船3丁目)にある第一啓蒙小学校内に一家で住み込む。ある日耕筰は小学校の大きな樫の木の看板が倒れてきて怪我をしたため、一家はヤングマンの住む築地居留地6番B棟に引っ越した。
自宅では両親や姉が毎日英語の讃美歌を歌い、主日には新栄教会に姉たちに連れられて通い讃美歌を聴き、知らず知らずにその旋律が身体に染み付いていった。また居留地の洋館から流れるピアノの調べ、墨田川の帆前船の船頭の親船を呼ぶ声など、築地居留地は耕筰の旋律の原点となった。10歳のとき父が療養のため一家は千葉に引っ越した。その後、長姉夫妻の元に引き取られ関西に移るが、波乱万丈の人生は自伝『若き日の狂詩曲』(中公文庫)を読んでください。
耕筰は明治33(1900)年6月のペンテコステに、後に岸田吟香の息子で麗子像で有名になった画家の岸田劉生と一緒に、数寄屋橋教会で田村直臣牧師から洗礼を受けた。やがて耕筰は従兄弟で一歳年長の大塚淳のアドヴァイスを受けて、彼を追って一年後に東京音楽学校を受験し合格した。その後の活躍は誰しも知るところである。    
~最後に出席者全員で「赤とんぼ」を斉唱した~

3.おわりに  「本日の報告によって、この築地居留地が近代日本の西洋音楽の発展を担った青年たちを育んでいった、重要な場所であったことを知って戴けましたら幸いです。」と結ばれた。

定例報告会後、聖路加国際病院旧館前で記念撮影をした。引き続き、講演に関連した史跡(築地居留地6番B棟など)を中島先生のご案内で探索した。その後、同先生を囲んでのお茶会があり、多くの質問が寄せられ先生は懇切丁寧に答えられていた。

《定例報告会に参加して思ったこと、感じたこと》
中島先生は講演をされる時は、いつも研究に基づき学術的にご説明をされますが、今回はテーマが出席者にとって身近なもののため研究に裏打ちされた内容を平易にご説明され、且つ上記聖歌隊の皆さんも加わり、和やかな雰囲気になるように工夫されて、大盛況であったと感じました。
なお、明治学院の前身校(ヘボン塾、バラ学校、築地大学校、東京一致英和学校、東京一致神学校)及び明治学院で学んだ多くの先輩諸氏が近代音楽の発展に多大に貢献された貴重な事績を私達ゼミ生は知り、非常に誇りに思いました。そして、本学の今後のあるべき姿の一部が見えたように感じました。本学の卒業生や現役の学生は、おそらく同内容について知っておられる方は少数と思われます。
従って、今後も学内外で同講演の開催を望みたいと思います。 最後になりましたが、この機会を得、先生並びに築地居留地研究会の皆様などに感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
(世話人:海瀬春雄)
海瀬さん写真

(写真:定例報告会のご案内)

OB会HP更新のお知らせ

HPを更新しました。

【更新内容】
・同窓会だより
・OB会総会報告
  白金祭イベント活動
  OB会合唱団設立 他

 詳細についてはHPをご覧ください。

69会 入学50周年記念、古希祝賀 懇親会のご案内

1969年に明治学院大学に入学し、体育会クラブに所属した同級生の皆様、

今年2019年は、50周年の節目であり、多くの人が数えで、古希を迎えます。

これを記念し、下記の通り、祝賀の会を開催しますので、万障繰り合わせ、

皆様、お誘い合わせ戴き、ご出席下さい。

2011年には、還暦を機に、60数名の仲間が集まり、旧交を深め、

楽しく懇親することができました。

今回も、懐かしい白金の地に集い、学生時代を共に過ごした体育クラブの同級生と

久闊を叙し、益々の健勝を誓い合う場となれば幸甚です。

奥様、お孫さん、家族同伴で参加下さい。 (孫に、母校を知ってもらいましょう)

             ―記―

日時 2019年4月14日(日)12:30~15:00

会場 白金キャンパス 本館10階 大会議室

会費 5,000円

   同伴の大人  3,000円   同伴の中高生 1,000円、小学生 無料

 

キャンパスツアー(学内施設見学)を実施します

キャンパスツアーに参加される方は 11:30集合 チャペル前に

※1969年当時は愛好会・同好会所属クラブで 現在は体育会クラブの方も

是非、ご参加下さい。

※4年間活動出来なかった方もご参加下さい。

※地方在住の方、この機にご参加をお待ちしています。

 

2011年には、ご連絡出来なかったクラブがありました。

申し訳ございませんでした。

今回は皆で手分けして、たくさんのクラブにお声かけしていますが、

以下の6つのクラブにご案内が出来ていません。

合気道部、水泳部、ラグビー部、体操部、アイススケート・ホッケー部、フェンシング部

 

このホームページをご覧になった方で上記クラブの69年度生をご存知の方が

いらっしゃいましたら、69年度生OBOGにお知らせして戴ければ幸甚です。

          世話人   大谷 明  体育会執行部第20代委員長

           問い合せ先  徳沢幸人 応援団OB(現 総監督)

                 ytokuzawa@way.ocn.ne.jp

明治学院大学応援団チャリティーショー第53回「白金の集い」 

2018年11月18日(日曜日)

第53回チャリティ-ショー『白金の集い』を開催しました。

開演 14:30  終了 17:30

会場 港区立高輪区民センター 区民ホール

【収益の寄付先】 ① 日本障がい者スポーツ協会

                 ②あしなが育英会

このチャリティーショーは、1966年に第1回目を開催し、

今年で53回目となりました。

応援団の伝統行事で、学生たちは、年が明けると、 次回の計画、準備にとりかかっています。

今回も、大学関係者、同窓生、学生のご父兄、応援団OBOGなど、 400余名の方に来場戴きました。

今年は、他大学応援団の学生が多数来場し、 明治学院大学応援団の伝統行事に感銘してくれました。

お越し戴いた皆さまに厚く御礼申し上げます。

冒頭 応援団顧問の亀ヶ谷先生  及び寄付先方々のご挨拶があり、

続いて、友情出演団体、応援団が演技を行いました。

協力 =文化団体連合会 舞台技術研究会、 愛好会吹奏楽部、

今年も、大学近くに立地する高輪区民センターとの共催で 区民ホールを利用させて戴き、地元の方にも出演、来場して戴きました。明治学院大学と港区のご縁がまた深まりました。

パンフレット広告をはじめ、ご支援ご協力戴いた皆様、

大変 ありがとうございました。

今回の様子を20分に編集して、 YouTubeにアップしています。

こちらをクリックすると動画を見ることができます。

投稿者 応援団総監督 徳沢幸人

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」第11回外国人居留地研究会全国大会に参加

当ゼミは、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、設立して6年半が経過しました。今回はゼミ活動の一環として「第11回外国人居留地研究会全国大会」(初日)にゼミ生8名が参加したので報告させていただきます。

開催日時や会場並びに次第など概要は下記のとおりでありました。

日時:2018年11月3日(土)13:00 ~ 17:15

会場:聖路加国際大学 アリスホール

           東京都中央区明石町10-1

テーマ:「居留地と女子教育」

次 第:

             (第一部)

             主催者挨拶    NPO法人築地居留地研究会理事長 水野雅生

             ご挨拶        東京都中央区区長 矢田美英

             ご挨拶      聖路加国際大学学長 福井次矢

             基調講演     東京女子大学教授 小檜山ルイ

                                             「居留地という空間と女性」

 

            (第二部)

            居留地代表者発表 テーマ「居留地と女子教育」

            コーディネーター 中島耕二 築地居留地研究会理事

                                             ①函館 酒井嘉子 はこだて居留地研究会会員

                                             ②東京 伊藤泰子 築地居留地研究会理事

                                             ③横浜 斎藤多喜夫 横浜外国人居留地研究会会長

                                             ④川口 杉山修一 プール学院学院長

                                             ⑤神戸 佐伯裕加恵 神戸女学院史料室

                                             ⑥長崎 姫野順一 長崎居留地研究会会長

                                             ⑦新潟 山田耕太 敬和学園大学学長

             シンポジウム   コーディネーター 中島耕二

                                               シンポジスト 各居留地発表者

             閉会挨拶

            次回開催地挨拶  斎藤多喜夫 横浜外国人居留地研究会会長

 

参加者:約320名

内容の要旨は次のとおりでありましたのでご紹介いたします。

 

 (外国人居留地とは*)

 江戸幕府は、1858(安政5)年の日米修好通商条約をはじめとしてイギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。これは「安政の五カ国条約」と総称されている。この条約では、箱館(現・函館市)、新潟、神奈川(現・横浜市神奈川区)、兵庫(現・神戸市兵庫区)、長崎の5港を開港、および東京(築地)と大坂(川口)を開市して、外国人の居住と貿易を認めた。しかし、実際に開港されたのは、神奈川の場合は横浜村(現・横浜市中区)であり、兵庫の場合は神戸村(現・神戸市中央区)であった。この条約により外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅商館を建てることが認められた。また、居留地の外国人は、居留地の十里(約40km)四方への外出や旅行も自由に行うことができた。この外国人居留地は、条約改正により1899(明治32)年に廃止されるまで41年間存続した。

   *同大会では当概要は基本的なことであり、理解していることを前提に詳細な説明は省略されたので、ここでは補足説明を加えた。

 

(第一部:基調講演)

「居留地という空間と女性」と題して、外国人居留地と女性に関しては、①居留地に対して日本側が提示した「女性」:遊郭と現地妻、②居留地に対して「西洋」が提示した「女性」:アメリカの白人中流女性などを例示しながら詳細に説明が行われた。さらに宣教師と「ホーム」の発信源としての居留地に関しても論じられた。すなわち、「居留地は、教育の揺籃の場であった。それは1890年代以降の官製良妻賢母教育が参照対象とした女子教育であったし(この2種の教育は似て非成るものであったが)、二〇世紀に入って大衆化される『主婦像』の原型を提供したものであった。」と結ばれた。

 

(第二部:各居留地代表者による発表とシンポジウム)

「居留地と女子教育」にスポットを当て、それぞれの居留地における宣教師(個人あるいは宣教師団)、いわゆるミッションによる女子教育が、日本の近代化とともにどのように展開され、またどのような社会的影響を与えていったかを各居留地の一校を例示して発表された。その対象とされた学校名は以下のとおりであった。

   函館:遺愛女学校、東京(築地):立教女学校、横浜:共立女学校

   大阪(川口):プール女学校、神戸:神戸女学院

   長崎:活水女学校、新潟:新潟女学校

なお、シンポジウムでは各居留地発表者は、先に発表した内容を掘り下げ、各校の特徴ある卒業生について、個人を対象にその足跡を追いミッション・スクールで受けた教育がどのように社会生活に活かされて行ったか事例報告を行い、コーディネーターはそれぞれに短いコメントを加えた。

最後にコーディネーターは「各居留地において宣教師が教えた内容は、女性に自立を目覚めさせ、多くの海外留学生の輩出をもたらし、日本の近代化に大きく貢献した。」と結ばれた。

 

(大会に参加して思ったこと、感じたこと)

基調講演では多角的な視点からの考察を拝聴し大変勉強になりました。各居留地代表者による発表とシンポジウムについては、それぞれの皆様が当該居留地に非常に誇りを持って深く研究されていることが感じられ、新しい知識を修得させていただきました。

本当にありがとうございました。感謝申し上げます。

なお、横浜での開催予定の次年度大会もぜひ参加したく思っています。

 

(付記)

『わたしの家族の明治日本』(文藝春秋、2018年10月)を刊行されたジョアンナ・シェルトン女史をご紹介いたします。

同女史は、1877(明治10)年に長老教会宣教師として来日し25年間日本伝道に生涯を捧げた曽祖父トーマス・T・アレキサンダー博士に強い共感を覚え、日本に何度も来られ、博士ゆかりの地・施設・人々を訪ねながら取材を重ね、関連史料や文献も探し求め、念願であった伝記を完成させ、2015年11月にアメリカで同書を出版した。同博士が築地大学校(明治学院の前身)教授・舎監、明治学院神学部教授として、築地居留地に11年弱住んだことから、同女史は2016年9月に築地居留地研究会においてアメリカでの同書出版の報告を兼ねて特別講演をされた。そして、今回は同書の日本語版の出版を機に再来日し、同大会にも特別ゲストとして参加された。同女史はアメリカ政府経済官僚として最年少で経済開発機構(OECD)の事務次長を務め、現在はモンタナ大学で客員教授をされている。

(世話人:海瀬春雄)

 img01 ヘボン塾講座有志の会写真

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真:聖路加国際大学)

中島耕二ゼミ「ヘボンの手紙を読もう会」第69回キリスト教史学会大会に参加

 

当ゼミは設立して6年半が経とうとしています。その間、元本学客員教授の中島耕二先生のご指導のもと、J.C.ヘボン博士、S.R.ブラウン博士、G.F.フルベッキ博士、W.インブリー博士、H.ルーミス博士の各書簡集あるいは伝記類の輪読と適時フィールド・ワークを実施してきました。現在は「横浜の女性宣教師たち」について学んでいます。

今回は、中島先生が研究発表された「第69回キリスト教史学会大会」にゼミ生として参加したので報告させていただきます。

 開催日時や会場並びに次第など概要は下記のとおりでありました。

 日時:2018年9月14日(金)~ 15日(土)

会場:(第1日)日本基督教団 金沢教会(第2日)北陸学院中学校・高等学校

次第:(第1日)開会式、研究発表Ⅰ、写真撮影、総会、キリスト教史学会賞授与および記念講演、シンポジウム、講演会

       (第2日)研究発表Ⅱ、研究発表Ⅲ、パネルディスカッション、閉会式

参加者:約100名

 そのうち、研究発表Ⅰの部で中島先生が「青木仲英―金沢教会初代牧師―」と題して発表された内容をレジュメから抜粋しその骨子をご紹介いたします。

 (研究発表の経緯)

中島先生は日本キリスト教史研究には宣教師の働きを再検証することが不可欠との思いから研究を始めたところ、明治期の地方伝道に大きな功績を残した牧師の一人として青木仲英の存在を知った。しかし、何故か『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988)に彼の名がないことから、調査を開始し長い年月をかけて青木牧師のご子孫を探り当て、各家に保存されていた貴重な史料を入手し、加えて青木牧師のすべての伝道地を訪ね現地調査を行い、今回実証に基づいた研究発表をされた。

 (序論)

日本基督一致金沢教会の初代牧師を務めた青木仲英(1858~1943)は、生涯を地方の開拓伝道に捧げたが、元来中央にあって教会の指導者として活躍し得る人物であった。では何故、彼が地方伝道者として生涯を送ることになったのか、その働きにもかかわらず『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988)に何故彼の名がないのか、その理由について、青木仲英の生涯を辿ることによって解明を試みたい。

(本論)

1.出自と教職者への道

青木仲英は安政5年4月28日(1858年6月9日)、武州岩槻藩江戸詰家老青木仲卒の長男として生まれ、上級武士の親族などに囲まれながら育てられた。仲英はアメリカ長老教会宣教師のカロザース、O.M.グリーンおよびインブリーらから指導を受け教職者になることを決心し、明治12(1879)年に東京一致神学校(明治学院の前身)に入学した。明治14(1881)年には神学生夏季伝道として、トーマス・ウィン宣教師を助け金沢、七尾、富山、高岡等北陸一帯で伝道奉仕をしている。翌明治15年6月に同神学校を卒業した。明治16(1883)年には按手礼を授けられている。

2.金沢教会初代牧師

明治18(1885)年4月には母、妻、長男、長女、弟二人とともに金沢に向け出発し、金沢教会初代牧師に就任した。在任中は金沢女学校(現北陸学院)第二代校長、浪花中会議長を務め、真宗勢力の牙城のなか教会員を増やしている。

3.地方開拓伝道

その後明治21(1888)年5月から大正4(1915)年4月まで27年間の長きに亘り家族帯同のもと、大阪、神戸、和歌山、高知県中村、徳島県池田、福井等次々と地方開拓伝道に仕え、行く先々で信徒を増やしていった。隠退教師となった後も、徳島県鷲敷で大正13(1924)年まで10年間奉仕をした。しかし、その地で妻のゑいを亡くしている。

(結論)

青木仲英は各地で大きな伝道成果を上げ、中央の教会に戻る条件は整っていた。しかし、その機会は得られなかったことは、仲英が長老教会出身者であることと関係している。当時、中央にあって日本基督教会をリードしていた植村正久や井深梶之助らは改革教会出身者であり、彼らとは教会観をはじめいろいろな面で意見を異にしていたことが挙げられる。すなわち、教派主義と超教派主義の問題、教会執行部の都市部伝道重視政策への反対など伝道に対する根本的な違いによるものであった。また、『日本キリスト教歴史大事典』に青木仲英の名が掲載されていないことは、日本キリスト教史研究者が伝道現場に注目してこなかったことを意味している。

 (中島先生からの指摘など)

キリスト教信徒が減少し今後ますます教勢が厳しいなか、この傾向を打開するためには青木仲英が実践したような地道な伝道活動が重要である。また、日本キリスト教史研究者は同様な視点から、数多くの先人牧師の働きを系統立てて調査研究することが必要であり、今後欠かせない作業である、と。

なお、同発表会場には史料を大切に保存し中島先生に提供された、青木仲英牧師の曾孫の方3名(うち1名は私達のゼミ生)とその家族が出席され皆様に紹介されました。

 (大会に参加して思ったこと、感じたこと)

各先生方の地道な史料収集や調査に基づいて纏められた研究内容を拝聴し、物の考え方、捉え方を改めて学ぶことができ非常に勉強になりました。また、内容を深耕しながら探求するひた向きな姿勢にも感動しました。さらに、記念講演、シンポジウムおよびパネルディスカッションでは幅広く知識を修得させていただきました。感謝申し上げます。

 (世話人:海瀬春雄)

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                                    (写真:金沢教会)                                        (写真:北陸学院ウィン館)

2018年度阪柳総会が開催されました。

 2018.07.07 集合写真

 2018年7月7日(土)午後2時より、阪柳先生ご夫妻をお招きして昨年に引き続き、 明治学院大学白金キャンパス本館大ホールにて阪柳会総会が開催されました。今年は通常の総会となるため、昨年のゼミ開講60周年、阪柳先生の米寿のお祝い兼ねた総会の参加者(89名)を上回ることはできませんでしたが、それでも総勢56名の参加者となり、北海道(2名)、新潟県、島根県、福岡県といった遠路から参加された会員もおられ、一年ぶりの再会を喜び、会員相互の親睦を深めることができ、会として大変盛り上がりました。

当会の恒例となりました、明治学院大学管弦楽団の現役団員の方々によるクラシックの生演奏を今年もお願いしました。今年の演奏はフルート三重奏による「トリプルアイス」「妖精」「モルダウ」の三曲で、明治学院大学管弦楽団のツイッターでもご覧いただけます。ご参照下さい。https://twitter.com/mg_orchestra

2018.07.07 フルート三重奏

 2018.07.07 先生と楽団メンバー

尚、これまで阪柳会総会は7月の第一土曜日に開催してきましたが、来年以降は時期を秋口に移行することも検討したいと考えています。

開催時期が決まりましたら改めてご連絡差し上げます。多くの会員の方々のご参加をお待ちしております。文責 阪柳会23期 三枝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ランチとハワイアン&カントリーライブ」で同窓生交歓

「61年卒仲良し会」が仕掛ける『おいしいランチを食べた後に気軽に楽しめるミュージックライブ』は今回で三度目となった。定会場である「田園調布倶楽部」も東横線多摩川駅から五分と近く、足の便が良く大半の皆さんは電車やバスを利用して来られた様で、小雨がぱらつく中を一二時には予定していたほぼ全員(45人)が集まりました。年代別では1948年卒の大先輩を筆頭に50年代卒が7人、60年代がが一番多数の24名で70年代が6人及びその関係の方々でした。三回目ともなれば六割強の方々がリピーターとなっていて、同窓生と言う気安さもあって顔なじみの方を見つけて全テーブルが埋まっていきました。食事が始まるにつれて各テーブルでは主に当時の古き良き時代の学院の思い出話にに花が咲き、また現在の白金キャンパスの変わりようにも話が及んでいました。本日の出演バンドは仲良し会のメンバーの一人でもある吉田正明君の出身校(成城高)中心に結成された「アロハ・オタッシャーズ」です。現在では女性二人を含めた七人がギターx4(スチールとベースを含む)、ウクレレx2とフルートx1で編成されていて、ランチが終わるのを見計らって司会進行役の吉田君がメンバーを1人ずつ丁寧に紹介してから演奏が始まりました。曲目は来場者に合わせてハワイアン&カントリーのポピュラーの名曲ばかりで、ご存知「Take Me Home,Country Roads」をスタートナンバーとして適宣、曲の解説を交えながら10数曲を楽しみました。(大峡壮介 記)

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69会 ゴルフ会

2018年5月24日(木曜日) 千葉県長生郡長柄町の【千葉国際カントリークラブ】で ゴルフ会を開催しました。 69会のゴルフ会は1984年に第1回目を行い、今回で64回目になります。 (1988年からは年2回開催) 当日、参加人数は17人でした。 69会は1969年に入学し、体育会クラブに所属したメンバーの集まりです。 参加者の出身クラブは以下です。 アーチェリー、サッカー、自動車、射撃、柔道、バスケットボール、 バドミントン、野球、応援団。 プレイ終了後のパーティーで、69会会長(第20代体育会執行部委員長)から 以下の催しの提案があり、各クラブに持ち帰り、周知連絡する事となりました。 【69会員 古希祝賀会&入学50周年記念 懇親会 2019年4月開催】  2011年に還暦の祝賀会を行いましたが、2019年は、数え若しくは満で70歳に達すると共に、1969年に明治学院大学に入学し50年という 節目で、再び白金キャンパスに集まり、今後の健勝を誓おうというものです。

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OB会HP更新のおしらせ

OB会のHPを更新しました。

◆更新内容

 ①総会・新年会のご報告(1月)
   提案事項の「白金祭参加に向けての合唱練習日程と場所」が
   全て決まりました。最新の予定表をご確認ください。

 ②同窓会だより

 ③OB会メンバーの演奏会のご案内

 詳細はHPをご覧ください。